みかん、をみつめる、みかん。


未完の美しさ。
煌めき。
が、どうでもいい。


正直に言えば、未完をいま本当に美しいとは思えないけれど、それは美しいんだろうという気はする。けれども、今時点の距離が。何とも。


未完に奮い立って入学して来る大学1年生の眼はわりかしキラキラしていて、対して4年生の眼にはわりかし未完の不安と決意の切実。そんなのはいいね。大学に行くのが、ちょっと楽しく思えます。私の眼にもそんな人並みの変化が観察できるはずで、そう、この決意の大袈裟と正しさをパソコンの画面上に移動させて鑑賞してみたら、その平凡に思わず笑み。次いでなお私の夥しい未完が訴えかけるのだから、ああやっぱりこれは切実。


もう未完の優位でものを言えない、言いたくない、と本当に今頃。発達の遅い私は蜜柑を食べたくなくて家族の勧めをいっつも拒否、それは最近の私の胃の容量に対して熊本産蜜柑の質量が大き過ぎるので。


高校生の頃、カラオケで友達が「蜜柑蜜柑蜜柑蜜柑蜜柑蜜柑蜜柑、みっっっかあああああん!!!」ってあれ何回言ってたんだろう、絶叫するセックスマシンガンズの歌をよく熱唱しておりましたが、あの叫びは何故だか時たま思い出される。みかん、ミカン、mikan、もはや擬音語みたいに響いて来るから?



とにかく



みかん



が、いま私の頭の中で鳴り続けているので、それは未完だろうと蜜柑だろうともうあんまりに切実なみかん。私だけのみかん。オケがみかん。文字を見つめているとゲシュタルト崩壊を起こして外国語みたいに見えてきた、みかん。み、って変な字ですね。






みかんみかんみかんみかんみかんみかんみかんみかんみかんみかん





さて何回言ったでしょう。



何だかリボン状の装飾というか模様のようで、美しいような気すらしてきました。やっぱりみかんは美しいのか。